日蓮宗の教え

日蓮宗の信仰の対象


大曼荼羅本尊

 仏教でいう「信」とは、梵語(サンスクリット)の「シュラッダー」を漢訳したもので「神聖なるものにあこがれる」という意味があります。そしてその「神聖なるもの」とは、経典に「仏とおよび法と僧とにおいて、深く清浄の信を起こし、三宝を敬うが故に能く菩提心を起こす」(華厳経、賢首品)と示されますように、「仏」「法」「僧」の三宝を指し、これが仏教の根本的な信仰の対象です。しかし宗派・宗祖によってその内容には異なりがあります。

 宗祖日蓮聖人(1222~1282)は、仏教の開祖釈尊が説かれた膨大な経典群の中から、殊更『法華経』を選び取られ、これを根本経典となさいました。従って、日蓮宗が標榜する信仰の対象は、その根本経典たる『法華経』に説かれた久遠実成の教主釈尊(仏)、その釈尊がお説きになった真意たる『法華経』(法)、そして『法華経』を弘通された宗祖日蓮聖人(僧)であり、この三宝を信仰の対象としています。日蓮聖人がしたためられた大曼荼羅(だいまんだら)ご本尊には、この三宝と法華経で最も重要な壽量品(じゅりょうほん)の説相が示されています。

日蓮聖人の系譜


伝教大師最澄         天台大師智顗(ちぎ)

 日蓮聖人はご自分が釈尊の真意を正しく引き継がれていることを示す為、二つの系譜を立てられています。すなわち法華経に対する学問的・歴史的な流れを示す「外相承」(げそうじょう)と、ご自身の主観的信仰に基ずく「内相承」(ないそうじょう)とを言います。

 はじめの「外相承」とは「三国四師相承」(さんごくししそうじょう)とも呼ばれ、インドで釈尊により説かれた法華経が、加葉(かしょう)、阿難(あなん)、馬鳴(めみょう)、龍樹(りゅうじゅ)等の大学者を経て、中国の天台大師(538~597)に受け継がれ、更に日本の伝教大師(767~822)を経て、ご自身に受け継がれたという、釈尊=天台=伝教=日蓮の歴史的事実に基づく系譜を言います。


法華経

 そして第二の「内相承」とは、歴史を超越して、教主釈尊に直接連なる師弟の関係を示した系譜で、釈尊=上行(じょうぎょう)菩薩=日蓮、と聖人の主体的信仰にもとづきたてられたものを言います。
宗教的な信仰の立場からはこの「内相承」に、より重要な意義があることは言うまでもありません。

日蓮聖人と『法華経』


日蓮聖人

 日蓮聖人は、膨大な仏教の経典の中で、『法華経』のみが完全真実の教えであり、釈尊の本意を淀みなく明かした経典と見なされました。そしてこの法華経は釈尊在世時の人々を救うばかりでなく、正しい仏法が失われ人々の心が病む末法(まっぽう)の時代、すなわち現代人の萎えた心までをも救い得る(否、寧ろ現代の我々の為の)教えであるとお考えになられました。

 日蓮聖人によれば、法華経は「二乘作仏」(にじょうさぶつ)と「久遠実成」(くおんじつじょう)を説く所にその特質と意義があることになります。そしてこの両者を「二箇の大事」(にかのだいじ)と呼称され特に重要な法門とされました。

 「二乘作仏」とは、法華経の前半に説かれる教えで、法華経以外の大乗経典では、自己中心的な声聞(しょうもん、仏の教えを直接聞き、四諦の道理により悟る人)と縁覚(えんがく、独りで十二因縁の道理を観察して悟る人)の二乘は成仏できないとされ、見捨てられていましたが、この法華経ではより高次元な「開会」(かいえ、我々が普通考える大小・善悪・長短等の相待的な二元論の立場ではなく、無自性空の絶待的一元の立場からの思考)の立場から、二乘をはじめ、悪人や女人(法華経以前の経典では女人は成仏しないとされていた。)も含む全ての人々の成仏を保証しています。そしてこの「二乘作仏」の法門により、一切の衆生を成仏の世界へ導く一仏乘の教えが示され、これにより我々末法の世に生きる凡夫ですら仏様と同じ心になることができると確証されたのです。

 いまひとつの「久遠実成」とは、法華経後半に説かれる如来壽量品の教説で、インドに応現され八〇歳で入滅された釈尊は実は仮のお姿であり、真実の釈尊は久遠の昔に成道した永遠の存在であると同時に、全ての諸仏はこの本仏釈尊の垂迹示現にすぎないことが明かされています。そしてこの本仏は真摯な本当の信仰を持つものに対して、何時でも、たとえ如何なる所でも、常に救済の活動を続けておられるとしています。

 日蓮聖人はこの法華経を学問的な理論としてではなく、久遠実成の本仏釈尊が常に大慈大悲による我々衆生の救済を継続されているという事実を表明したものと理解し、法華経を理屈ではなく、それこそ全身全霊で読まれ、持たれたのです。(これを法華経の「色読」しきどく、と称し日蓮聖人の法華経観の一大特色としています。)

一念三千と妙法五字

 前述の「三国四師相承」に名を連ねる、中国隋の時代の天台大師はその著『摩訶止観』(まかしかん)の中で、「一念三千」(いちねんさんぜん)という重要な教義を展開しています。同じ学問の系統を引く日蓮聖人も当然この思考を受容されましたが、更に一歩踏み込み「事の一念三千」(じのいちねんさんぜん)なる独自の法門をお立てになり、これを一切衆生成仏の根本原理とされました。

 天台大師が提唱した「一念三千」とは、仏教の根本的な「縁起」(えんぎ)思想に基づいて、我々がつねひごろ起こす一念(一刹那の心)の中に、既にこの宇宙全体が備わっていると考える思想です。「一念」というのは我々が日常に起こし続けている何げない気持ちで、仏様の心などとは無縁な単なる煩悩心にすぎませんが、例えば、なにげなく散歩していたら道端に綺麗な花が咲いていたとします。「綺麗だな」と思えばこれは立派な「一念」です。しかし綺麗だから「ちょっと折って持って帰ろう」と考えれば、この「一念」は一瞬のうちに地獄や畜生の心になります。しかしこの花をみて春を予感し、その恵みに感謝の気持ちがわいてくれば菩薩や仏様の気持ちにも成りうるわけです。このように、悪心の中にも善心が備わり、苦しみの中にも楽しみがあり、嘘の中にも真実があるという具合に、われわれの一念の心には既に全ての事柄が含まれていると思考することができます。そしてその中から深い禅定(止観)により真実をみきわめ、悟りを体得せんとするのが天台の「一念三千」の観法であり修行です。

 しかし日蓮聖人はこの天台の「一念三千」は未だ理論的な範疇であり、現実に即した思想ではない、末法の世に苦しむ衆生を救うには理屈の「一念三千」ではなく、現実に即した「事の一念三千」(じのいちねんさんぜん)でなくてはならないと主張され、この天台の「一念三千」を「理の一念三千」と規定されました。

 日蓮聖人によれば、我々凡夫は、本来久遠本仏の釈尊と一体であり、森羅万象の様相は悉く異なっていても、実はすべて本仏の悟りの境涯にすぎない、我々がこの事に気が付かないでいるのは自己中心的な煩悩に厚く覆われているからにすぎないと思考され、そしてこの本来あるがままの本仏と一体の世界に入るには、天台のような修行によらなくとも、ただ真摯な本当の信仰によって到達することができると主張されました。すなわち天台の「一念三千」のように理論ではなく、現実に信じ行じることにより本仏と一体(仏果を得ること)となれるとして、これを「事の一念三千」と名付けられたのです。

 しかして、日蓮聖人は「一念三千を識らざる者には、仏、大慈悲を起こし、妙法五字のなかに此の珠をつつみ、末代幼稚の頸に懸けさしめたまう」(観心本尊抄)とお説きになり、難解な「一念三千」の理論を理解できなくても、妙法蓮華経の五字の中に、仏様がそれを含めて下さったので、妙法五字を受持すれば、自然に悟りを譲り受けることが出来るとおさとしになられました。

 題目受持と唱題の根拠はここにあり、「南無妙法蓮華経」と信念唱題することにより成仏が可能となり、この世界がそのまま仏土となることから、日蓮宗では唱題行を実践するのです。

 但し、一念三千の世界(諸法実相の世界)においては、この宇宙全体に存在する一切のものは全て様々な関係性により成立しているとみなします。そしてそのような複雑な関係性によりなる世界(因縁所生・衆因縁生法の世界)を正しく、ありのままに認識・洞察するには、自己中心的な思考(自分だけよければよいとする様な固定的な「我」)は全く否定されます。すなわち、久遠本仏と一体になったありのままの世界を体得するには、自己中心的な心でする唱題ではなく、自分を置いてでも周囲のものや他人の立場に立った清浄な気持ちで唱題する態度が肝要なことは言うまでもありません。

文 日 比 宣 俊