妙秀山樹源寺の沿革

妙秀山 樹源寺の沿革

 当山は鎌倉時代末期まで、東方山医王寺という真言宗の巨刹(おおでら)でしたが、兵火にかかり薬師如来を安置した薬師堂のみを残して一時期廃寺同然となっていました。
 後、寛永年間( 1624-44 )になり、保土ヶ谷宿本陣刈部吉次の室(奥方)が日蓮聖人の御教に深く帰依され妙秀尼(みょうしゅうに)と号し、焼け残った薬師堂の大欅(おおけやき)の傍らに庵を結ばれ、師の善領院日了上人を招いて日蓮宗総本山身延山久遠寺の末寺として開山致しました。

 開基妙秀尼は寛永九年(1632)五月二十二日遷化、開山日了上人は明暦三年(1657)九月二十七日に御遷化されています。
 妙秀尼は保土ヶ谷宿本陣の室であったことから、当山のご本尊の手前には徳川四代将軍のご位牌が奉安されています。

位牌中
「日光山東照宮大権現」とは、徳川家康のこと。
「台徳院殿一品大相国公」とは、二代将軍秀忠のこと。
「大猷院殿贈正一位大相国公」とは、三代将軍家光のこと。
「厳有院殿贈正一位大相国公」とは、四代将軍家綱のこと。

 医王寺時代のなごりである薬師如来は、人々の病を平癒し苦悩を救う佛様と伝えられ、いつのひにか山門外の小堂に安置されて、お年寄りたちの眼病平癒の祈願を受けておりましたが、現在は、昭和五十四年日蓮上人第七百遠忌報恩事業の一環として建立された講堂の中に安置され、人々の信仰を集めています。また当山の墓地はJR東海道線を踏み切った小高い丘の南面に広がっておりますが、明治末から大正期にかけて活躍した、劇作家、山崎紫紅(1875~1939)の墓があることで知られています。

薬師如来が安置されている講堂

 薬師如来は東方にある浄瑠璃浄土の教主で、フルネームを薬師瑠璃光如来と言う。薬師とは昔の医師のことであることから、病気治癒に一番の御利益があると言はれている。

樹源寺の大欅と白蛇

 寺号の由来でもありました樹源寺の大欅は八百有余年の樹齢をほこり、当山の象徴として広く人々に親しまれていましたが、(残念なことにこの欅は排気ガス等による空気汚染のために枯れ、昭和四十五年に伐採されました。)この大欅の主が当山二十一世日建上人の夢枕に出現した話が残っています。…「上人この時大病で茅に横になっていると、夜中天女が来て申すには我は欅の空洞に棲む白蛇である。朝夕響く法華経讀誦の聲にもはや成仏の因も芽してきた。即ち我れを源龍大善神と敬いくれるならば、汝の病、たちどころに平癒するであろうと告げると思えば夢醒めた。そこで早速、欅の洞穴に小祠を設け祈ると、忽ち快癒してしまった、それからこの大樹にしめ縄をはりめぐらした。」(この文章は昭和四年十二月二十九日付普通新聞に掲載されたものです。)

 現在、大欅の一部は「ついたて」となって大玄関に飾られ、お客様をお迎えしています。